【コラム】編集後記 ~卒業生記者の取材ノートから~ ③関大野球部「渋男旋風」の裏に【前編】甲子園V戦士から学生コーチへ。背番号52に込めた想い

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関大の卒業式まであと2日!関大スポーツ編集局から旅立つ2人の記者が、あの名場面や歓喜の裏側など、カンスポ記者生活の最後に伝えたいことを綴りました!

2016年10月24日。関大が立命大とのプレーオフを制し、4季ぶりのリーグ優勝を決めた日。早瀬万豊監督、田尻悟郎顧問、松山和哉主将に続いて胴上げの輪に呼ばれたのが、背番号52をつける学生コーチの森島貴文だった。
かつては石丸亨(15年度卒)が関大史上初の主将兼学生コーチとなり、その役職が注目された。主力組、控え組を問わず約160人の選手全員の練習を運営する。2016年、関大を沸かせた野球部には欠かせないピースがあった。

■決意の転身
現在の4年生には当初、マネージャーや学生コーチがおらず、下級生時から誰かがなるように先輩に詰め寄られることもあった。学生コーチへの転身は選手としての試合出場を諦めることを意味する。学年全員が選手にこだわり、先輩からの圧力をかわし続けてきた。
それでもおととしの新チーム発足時、「学生コーチを1人出してほしい」という早瀬監督の要望に名乗り出たのが森島だった。史上7校目の甲子園春夏連覇を達成した大阪桐蔭で捕手としてベンチ入り。関大入学後に内野手に転向し、14年秋の新人戦決勝では3安打4打点の大暴れ。優勝に大きく貢献し、最優秀選手に輝いた。プレーヤーとして着実にステップアップしていただけに心は揺れたが、監督や石丸と相談を重ね、意志を固めた。「特に試合に出ている同期は自分の意見をどんどん言うタイプだったので、そのメンバーをまとめる中で自分の意見を言えない人が(学生コーチに)なってもチームのためにはならない。ここは自分しかいないと思って覚悟を決めました」。

選手として活躍する夢がなくなっても、野球人としての情熱は冷めなかった。代替わりしてすぐのミーティングで、選手たちに向かって「学生コーチはお手伝い係じゃない。主将よりも発言力があって、チームに欠かせない絶対的なポジションにする。日本一になるために俺は選手生活を辞めてでもこのチームに捧げるから、やる気のないやつは練習に来なくていい」と強く言った。

▲試合中、ベンチから声を出す森島(右から2人目)

監督と選手の間を取り持ち、練習を回すことが主な役割。練習開始前に監督室へ行き、事前に考えていたメニューを監督・コーチと相談。練習中は選手たちが動きやすいように笛を吹き、ノックを打つなど補助や運営に努める。こだわったのは「得点力不足の解消」。シート打撃の回数を増やし、各練習の効率化を徹底。打撃練習にも走塁を組み込み、隙間の時間にもティーでバットを振らせた。高校時代に日本一を経験したからこそ、その道のりの厳しさを知っている。「関大のメンバーとも一緒に味わいたいから、一切の妥協を許さない」。手を抜く選手がいれば近くへ歩み寄って鬼軍曹を演じ、グラウンド外では後輩を食事に連れて行くなど、良き兄貴分となった。そんな森島の姿に心を動かされた土屋智史や安田将也らが加わり、たった2人だった学生コーチは5人に増えた。

▲共に4年生の学生コーチ・土屋(左)と森島。裏方として奮闘した

打撃に自信があったがノックは初心者。選手として立つ打席では全く緊張しないのに、春季リーグ開幕戦の試合前ノックでは足が震えた。また、試合中は三塁コーチャーも務める。「打ったり守ったりで活躍はできないけど、1点を争う緊迫した場面で自分が止めるか回すかで勝敗に影響する。一喜一憂すると隙が生まれる」と常に冷静を保つ。プロや社会人の試合を見るときも、技術を吸収しようとノッカーや三塁コーチャーに目を向けた。
就職活動中も可能な限りグラウンドにいられるように努めた。練習を抜ける回数を減らすため、一日に3,4社の選考を詰め込んで会社から会社へ走ったこともある。メリハリをつけた取り組みが実り、5月下旬に希望企業から内定を獲得。翌日から練習に完全復帰した。

▲明治神宮大会・明大戦の試合前ノック


▲明治神宮大会・明大戦で三塁コーチャーを務める森島

■生きた大阪桐蔭・西谷監督の教え
高校時代、一学年下の森友哉(現埼玉西武)が絶対的正捕手として君臨した。「森が入学してきた時に、捕手では絶対試合に出られへんなって確信したんです。それからはどうやったら18人のメンバーに入れるかを考えていました」。
関大OBでもある大阪桐蔭・西谷監督は大学時代、主将を務めるも故障に泣き、主にブルペン捕手としてチームを支えた。その経験談を聞いてから、かつての恩師の姿が自身の境遇と重なり、ブルペン捕手に活路を見出した。同級生の藤浪晋太郎(現阪神)、澤田圭佑(立大→オリックス)ら、毎日多くの投手の球を受けては監督に報告。試合になれば「森が良いリードをできるように」と投手の状態を細かく教え、地道に信頼を勝ち取った。「試合には出たいけど、一番はチームのために」。どんな形であれ、チームに貢献しようとする姿勢はこの時に染みついた。

■貫いた転身当初の想い
「学生コーチをチームに欠かせないポジションに」という信念はぶれなかった。選手全員・監督・コーチなど多くの人の信頼を得て、責任を背負うという自覚から、病気で休むことも遅刻することもなかった。ある4年生部員は「森島が自分の気持ちを押し殺して学生コーチになってくれて、誰よりもチームの事を考えてくれた。森島のためにもグラウンドに行こうと思った」と話す。他の4年生も就職活動を終えると、グラウンド整備や打撃投手などの補助役を買って出た。

そして昨秋、チームは大混戦の関西学生リーグを制し、4季ぶりの歓喜に沸いた。厳しい言葉をぶつけ、本気で向き合ってきた選手たちによって輪の中心に招かれた陰の立役者は、照れくさそうにしながらも宙を舞った。

▲リーグ優勝を決め、森島は選手たちの手によって胴上げされる

2年前、涙を流しながら学生コーチ転身を伝えたとき、両親は「悔いがないなら一生懸命頑張りや」と背中を押してくれた。新人戦の活躍を見て「お前だったら4番を打てるやろ」と話していた祖父は、選手時代と変わらず応援に来てくれた。「高校も大学もプレーヤーとして恩返しすることはできなかったけど、学生コーチは自分の輝けた場所だったから、一番応援してくれた家族にも恩返しできたかな」。そう語る同世代の背番号52は、グラウンドのナインに負けないくらい渋かった。【吉見元太】